三
 
 「何の用ですか」
  逆に問いかけながら、振り返る。その先に、白を纏った細身の男が白面に微笑を湛えて佇んでいた。
  この男の事務的な口調と笑みの向こうに、計り知れない独善と傲慢が潜んでいることを私は知っている。
  ハザマと名乗る、プローブネクサス社の会長秘書。それと同時に、独自にアレンジした劈掛(ひか)拳を修めた拳法家でもある。
  私はかつて一度だけ彼と闘ったことがあり、そのときは何とか退けたものの、まるで本気を出していなかったようにも感じた。恐らく、その認識に間違いはない。
  暫く前、父の命日の墓参りの場にも現れたが、一体――。
  思案の最中、中性的な顔がにっこりと微笑むのが見えた。
  それが、ふっと掻き消える。
  ほとんど直感的に、私は真後ろに振り返りながら防御の姿勢を取った。直後、身体を庇う両腕に体重を乗せた肘の一撃が打ち込まれる。一瞬でも反応が遅れれば、まともに鳩尾を突かれていただろう。
  衝撃が身体を抜けていく。
  くう、と声が漏れた。
  一応にしろ防御したお陰で、ダメージらしいダメージはない。とはいえ、その威力を完全に抑え切れたわけではないのは、両腕に広がる鈍い痛みが声高に伝えてくる。そう何度も耐えられる攻撃ではない。
 「油断ですよ」
  と、じんと痺れる両腕の向こうから、冷ややかな声が投げつけられる。
 「グリードを目指していた頃の貴女であれば、今の一撃――甘んじて受けるのではなく、逆に捌いてこちらの体勢を崩すに至った筈。睦月の技を忘れましたか?」
  そう、あの頃の私であれば。明確な目的と、研ぎ澄まされた心があった私だったなら、この相手を前に集中を欠いてまで思案などしなかっただろう。
  だが、今は――。
 「貴女は睦月清十郎を倒したグリードをも下したのです。それは事実上、貴女が父を超えたということではないのですか」
  それがこの体たらくでは困る、とでも云いたそうな口調。
  それも仕方がない。私は既に戦う意味を持たないのだから。あの男のように、戦い自体を楽しむことなど出来そうにない。
  それに――。
  私は彼から目を離さず、答える。
 「そうは……思いません」
  確かに私はグリードを倒した。それは人を殺めることさえ想定した睦月の裏の業があって、初めて出来たことだ。もしもあのとき、父が私たちに構わず持てる力のすべてを出していたならいかにあの男、グリードといえど――。
  私の思いは、ハザマの顔に広がった笑みによって掻き消された。
 「謙遜ではないようですね。なるほど、御賢察と云うべきでしょう。そう――貴女は未だ、本気の睦月清十郎には遠く及ばない」
 「……っ!」
  心臓が軋むかのように、胸の内がざわめいた。
  今の言葉、そしてその意味。
 「……やはり貴方は、生前の父を知っているのですね」
 「勿論」
  答えと共に、笑みが消える。
 「表ならぬ格闘技界において、あの方の名を知らない者もそうはいないでしょう。世界中の強者を集めた筈の第一回F.F.S.――それを、他を寄せ付けぬ圧倒的な力で勝ち上がり、優勝を飾ったのが貴女の御父上なのです。それは、招待状にも書き添えましたね」
  そうだ、確かにそう書いてあった。一度は破り捨てようとしたそれをこうして今も持っているのは、そこにその一文が認(したた)められていたからに他ならない。
 「残念ながらその直後、グリードに敗れてしまいましたが……各国の陰の実力者たちが今尚F.F.S.に興じるのも、恐らくはあの方の強さに魅せられ、その熱が未だ引かないからなのでしょう。それほどにあの方、睦月清十郎は強かったのですよ」
  私はハザマの目を見据えた。
  常にその顔に微笑を湛え、決して絶やさぬこの男が、一切の驕りなき真摯な表情で父の強さを語っている。
  それはそのまま、父が偉大であったということの証明だ。雄々しさも優しさも持った父が、誰よりも強かったということの。
  私には今、それが只々誇らしく、その思いに胸がこんなにも熱い。
  そして同時に、抑えようもなく、私は――。
 
 「……当時の記録や資料が、残っているのですか」
 
  ――私は、その父の姿を知りたいと願った。
  その意味するところを察したのだろう。ハザマの顔に笑みが戻る。
 「データはほぼ完全な形で保管されています。もしもそれをお望みであれば……」
  すう、と息を吸い、ゆっくりと吐く。その一間を置いて、私は答えた。
 「判っています」
  F.F.S.への参加。己が望むものを手にする権利は、優勝者にのみ与えられる。
  私は彼に背を向け、鞄の中から漆黒の封筒を取り出した。
  思えば、何処かでこうなることを――紛れもないただの私の我儘(わがまま)を誰かが後押ししてくれることを、望んでいたのかもしれない。
 「ご参加の意志を確認致しました。日時は手紙でお報せした通りです。ゾーンプライムにて、貴女をお待ちしております」
  背中からの声は、既にあの事務的な口調に戻っていた。
  同じようにして言葉を返す。
 「承知しています。……それから」
 「?」
 「次からは、後ろに忍び寄るのはやめてください。……不愉快です」
  背後の声が微かに笑みを含んで、
 「これは失礼を……」
  その言葉と共に、ハザマの気配はその場から霧消した。
 
  私は振り返らずに、暫くそのまま、海と空の境目を眺めていた。
 
 
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